イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」マルコ 12:43

寛大さの比率

こころの姿勢は、わたしたちの行動を決定し、同時に、わたしたちが本来どのような人間であるのかを指し示します。寛大なのか自己中心なのか、人と分け合うことができる人間か、ひそかに蓄えるばかりの人間なのか。神様に喜ばれる人間なのか、それとも嫌悪の対象なのか。そうであるからこそ、こころの態度には十分に注意を払わなくてはなりません。次のみことばの中で、イエス様は、二つの銅貨を神殿の容器に入れた未亡人を、大金を入れた金持ちよりも称えられました。なぜなら、主は、彼女の、寄付という哀れみの行為の基にある、信仰と寛大なこころの態度を理解されたからです。「イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。』」(マルコ 12:43)イエス様が彼女を称賛された理由は、彼女の寄付の比率ゆえです。「 皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ 12:44)エリヤの人生にまつわる話の中にも、似たようなエピソードがあります。ザレパテの未亡人が、持っていた食べ物をすべて預言者のために差し出す話です。「すると彼女は答えました。『あなたの神、主にお誓いして申します。家には一切れのパンもありません。つぼの底に粉がほんの少しと、ほかにわずかばかりの油が残っているだけです。実は、それで最後の食事を作るため、たきぎを集めていたところなのです。それを食べてしまったら、息子と二人、飢えて死ぬのを待つだけです。』」(列王記上 17:12)その未亡人は、預言者エリヤに食事を与えると、神様から豊富な食材とご加護を褒美として受けました。また、福音書には、他人を省みるこころが全く無かった愚かな金持ちの寓話があります。その金持ちは、過度の自己中心さと、分かち合いのこころの欠如ゆえに罰せられました。「ひとり満足した金持ちは、われとわが身に言い聞かせたのです。『もう何も心配はいらないぞ。これから先何年分もの食料がたっぷりある。さあ、食べて、飲んで、楽しくやろう。』 しかし神は、こう言われました。『愚か者よ! あなたのいのちは、今夜にもなくなる。そうしたら、ここにある物は、いったいだれのものになるのか。』」(ルカ 12: 19-20)慈悲深さと豊かさを分け与えてくださる神様が、わたしたちを、必要としている人びとと分かち合うことができる寛大なこころで、祝福してくださいますように。

 

天のお父様、未亡人の寛大なこころの例を提示してくださり感謝いたします。聖霊様が、わたしの中で、分かち合いの喜びの信仰を強めてくださいますように。イエス様のもっとも寛大なお名前において、アーメン。