私はキリストと共に十字架につけられました。ガラテヤ人への手紙 2:20

もはや、私自身が生きているのではありません。キリストが、私のうちに生きておられるのです。

私はキリストと共に十字架につけられました。もはや、私自身が生きているのではありません。キリストが、私のうちに生きておられるのです。私のためにご自身をささげてくださった神の御子を信じた結果、今、私のうちにはほんとうのいのちが与えられています。 ガラテヤ人への手紙 2:20

 

「わたしはキリストとともに十字架につけられました。」

これはパウロの言葉です。彼が伝えたいと願うのは、キリストが十字架の死刑にかけられた時に、私たちも主とともに死刑にかけられたのだということです。ですから私たちはもはや生きていないのです。死んでいるのです。だから、「 もはや、私自身が生きているのではありません。」とパウロは言うのです。死刑の刑が下されたとき、私たちもキリストと一緒に十字架の上で死んだのです。

 

「キリストが、私のうちに生きておられるのです。」

キリストを殺すことは誰にもできません。主は死にましたが、三日後に生き返りました。「イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも変わることがありません。  」(ヘブライ人13:8)。その同じキリストが私たちのうちに生きていらっしゃるのです。

 

 「聖霊が私たちのうちに住んでおられるのです。」(1 コリント 6:19) 

「もしその人のうちにキリストの御霊が住んでおられないなら、その人はクリスチャンではありません。」(ローマ 8:9)  

 

そこで、何よりも大切なことは、キリストに私たちのうちに住んでいただくことです。そして、主が私たちのうちに生きていらっしゃることを自覚することです。主は、私たちが望み、招待し、主のための場所を準備し、敬いの心で出迎えて初めて私たちのうちにいらっしゃいます。招きのない場所に主は決していらっしゃいません。誰のうちにも、主は無理やりに入ってこられたりはなさいません。

 

「私のためにご自身をささげてくださった神の御子を信じた結果、今、私のうちにはほんとうのいのちが与えられています。 」

キリストが私たちのうちにいらっしゃるとき、私たちは全ての権利を信仰によって主に委ねます。そして、主が指揮をとられ、私が何をすべきか、どのように生きるべきか、何を話すべきか、すべて主がお決めになります。すべてが私のうちに住まわれる主から、主を介してなされるのです。

 

パウロは回心の瞬間からキリストをこよなく愛し、キリストが彼の唯一の愛する人となりました。パウロは、キリストのみが彼を愛していることを理解したのです。だから、私のためにご自身をささげてくださった神の御子と述べています。パウロの手紙は、イエス・キリストを信じるものが、どれほどまでに主と強く結ばれることができるのかを証明しています。私たちもパウロと同じ体験を望みましょう、同じ心の渇きを覚えましょう。そしてキリストが私たちのうちに住み、自分のためや自分に頼り生きることのないように祈りましょう。

 

天のお父様、これほどまでに私たちを愛してくださり感謝致します。あなたを崇拝し、愛します。イエス様、私のためにご自分を犠牲にしてくださり感謝します。私たちが皆、この救済の体験を自分のものとすることができますように、聖霊様が私たちを主と結び付けてくださいますように。そして一瞬・一秒、常に主に結ばれて生きることができますように、イエス様の最も偉大なお名前において、アーメン。